2019年度 考古学部会発表要旨 |
1、備後北部地域における弥生土器の小地域色 広島県立歴史民俗資料館 村田 晋 広島県下における弥生土器の地域色研究は、主に県外あるいは県内でも河川流域を違える地域との比較を中心とした、比較的大きな視野から進められてきた。その成果として、弥生時代後半期には、県内でもいくつかの範囲に土器の地域色が分かれることがわかっている。 「塩町式」に代表される備後北部第四様式の土器群も、顕著な地域色を示す資料として著名であるが、それによる備後北部地域としての地域色は強調されてきた反面、地域内における土器の比較研究はほとんど行われてこなかった。 備後北部地域でも近年は遺跡調査例が増加し、地域内におけるさらに小さな土器地域色を論じる材料が揃いつつある。そこで、今回は特に三次盆地と庄原盆地周辺の第四様式土器の比較を通して、両地域における土器の小地域色を整理し、その意味するところについて考察を行いたい。 |
2、甲立第二号古墳確認調査について 安芸高田市地域振興事業団文化課 沖田 健太郎 甲立第二号古墳は、2008(平成20)年に安芸高田市甲田町上甲立字菊山の山林で発見された。当初の表面観察では墳丘斜面に葺石をもつ古墳時代中期頃の円墳とみなされていた。 調査の結果、尾根地形先端頂部に築造された、四隅突出型墳丘墓や方形貼石墓の系譜にある葺石を持つやや墳形が整わない方墳で、墳丘の築造に際しては大規模な造成を伴っている。墳丘の築造には外来系要素と在地系要素が共存する。出土遺物は墳頂上からの転落遺物が少量あるに過ぎないが、ここにも外来系要素と在地系要素が共存する。埋葬施設の詳細は不明である。これらから、古墳時代前期前半を下限とする時期に築造されたと推測される。前期古墳の確認例が少ない広島県北域における最初期の古墳となる可能性があり、弥生時代後期以降の四隅突出型墳丘墓分布域である当該地域の古墳墓制の受容過程を明らかにする手がかりとなりうる重要な事例となった。 |
3、広島市安佐南区緑井大上遺跡の発掘調査 広島市文化財団文化財課 田村 規充 緑井大上遺跡は広島市安佐南区緑井八丁目に所在し、阿武山(標高586.2m)南麓に派生する尾根の先端、標高30m付近に位置し、周囲には扇状地が広がる。主に弥生時代後期から古墳時代前期までの集落跡と中期古墳二基を確認し、いずれも八木・緑井地区としては初の調査事例となった。 第一号古墳は、墳丘上に1基、周溝内に2基の埋葬施設を持つ方墳である。中心となる墳丘上の埋葬施設は上段の墓壙長が4.38mの二重墓壙内に割竹形木棺を据え、破砕された鉄製品が副葬されていた。その特徴から5世紀前葉の時期が想定される。 第二号古墳は、墳丘上に2基の埋葬施設を持つ楕円形状の円墳である。そのうち長さ2.46mの墓壙内に鎹を使用した割竹形木棺を据えた埋葬施設には、刀子、鉄鎌、鉄斧、鉄鏃、素環頭大刀、錐状鉄製品、ガラス小玉が副葬されていた。その特徴から5世紀後葉の時期が想定される。 |
4、横大道古墳群出土遺物の紹介と再評価 竹原市教育委員会 三輪 宜生 横大道古墳群は、竹原市の北部、新庄町に所在する古墳時代後期の古墳群であり、6世紀中葉から7世紀にかけて築造された11基の円墳で構成される。昭和32年に石室内の調査が実施され、古墳群中最古かつ最大の規模を誇る横大道一号墳からは、双山式冠の破片や金銅装馬具を始めとする豊富な副葬品が出土したほか、古墳群中で最も新しい時期に属する横大道八号墳では、石室内から銅椀が出土し、昭和38年に竹原市史跡に指定された。 横大道一号墳は優れた副葬品や大規模な石室の存在から、竹原市北部のみならず、周辺地域をも統括した首長墳として評価される一方、その出土遺物は、冠片や銅椀が研究論文で引用されるに留まり、他の資料群は昭和38年発行の『竹原市史 第二巻』に掲載されて以降、再評価が行われていないという現状がある。 今回の発表では、資料群として横大道古墳群出土遺物の紹介を行うとともに、可能な範囲で資料の再評価を試みる。 |
5、二子塚古墳の保存整備について 福山市経済環境局文化観光振興部文化振興課 唐津 彰治 二子塚古墳は広島県東部に所在する、古墳時代後期の周濠を含めた総長73mに達する大規模前方後円墳である。石室の構造、副葬品の内容は畿内地域と関係があったことを示すことや、西日本では前方後円墳が作られなくなった時期の大規模な古墳で、古墳時代後期の政治状況を知る上で重要であることから、2009年7月に国史跡に指定された。福山市では2012年3月に保存管理計画を策定し、二次の発掘調査を経て2016年度から保存整備工事を行っている。 1年目工事(2016年度)は、後円部石室補強・石棺修復工事を行った。2年目工事(2017年度)は民家隣接地法面対策工事・墳丘復旧工事等を行ったが、協議に時間を要したことから、3年目工事(2018年度)に繰り越し、7月の豪雨災害による中断を挟んで2019年1月に完了した。 保存整備工事は来年度完成を目指している。これまでの工事の経過を振り返り、課題等の中間報告を行う。 |
6、尾道市史編さん事業に伴う塚畑古墳の確認調査 福山市立大学 八幡 浩二 尾道市企画財政部文化振興課 西井 亨 塚畑古墳は、尾道市美ノ郷町三成下組に所在する。本古墳は谷部に立地し、現状では段々畑の石垣として、横穴式石室の一部が僅かに確認できる状態である。これまでに石垣前面の畑地から須恵器が出土していること、当地が地元で「ツカバタケ」と称されていること等を踏まえ、畑地内の確認調査(試掘調査)を実施した。 調査では、古墳の墳形や規模は不明ながらも、両側壁の基底石の一部を検出することができた。現段階では基底石が羨道部・玄室部のどちらに相当するものなのかは決し難いが、本古墳と指呼の間にあり、市内最大級の規模を誇る横穴式石室で、現在は市史跡に指定されている「猪子迫古墳」と比較しても、同規模のものであろうと考えられる。 |
7、重要文化財常称寺本堂亀腹の確認調査 尾道市企画財政部文化振興課 西井 亨 平成29年度から実施している重要文化財常称寺本堂保存修理事業に伴い、本堂礎石及び亀腹の構造を把握するための確認調査を行った。亀腹は江戸時代に補修されているものの、室町時代と考えられる整地層を確認し、その直下から、大量の瓦片と若干の土器等が出土した。土器は土師質土器皿が多く、瓦質土器鍋や備前焼甕等も出土し、15世紀後半から16世紀前半の年代に比定される。大量の瓦は焼けた壁土や炭化物とともに細かく割られて廃棄されており、一部には瓦片のみが敷き詰められた箇所も見受けられる。瓦は、14世紀後半から15世紀前半に比定されるものが多く、現在の本堂以前の本堂が火災等により焼失したことが考えられる。 |
8、東広島市西条町 四日市遺跡の釜場遺構について ―酒都・西条の醸造関連遺構― 東広島市出土文化財管理センター 中山 学 四日市遺跡は、JR西条駅南側に広がる弥生時代から近現代までの複合遺跡であるが、遺構・遺物の中心は遺跡内を東西に縦貫する西国街道沿いに成立した近世の宿場町「四日市宿」に関連するものが大半を占め、その時期は江戸後期以降である。 四日市宿では延宝3(1675)年以降に本格的に醸造業が開始されたが、明治27(1894)年の山陽鉄道の開通以降は酒蔵が急増し、西条駅南側を中心に今日みられるような酒蔵が立ち並ぶ“酒都”の景観が成立した。 今回報告する釜場遺構は酒造りの初期工程である“蒸米”を行うための施設であり、酒米を蒸す釜を据え付けた2基の竈とそこに燃料を投入するための焚場、焚場へ降りる階段、燃料室、煙道、煙突基礎などがほぼ完全な形で発見された。構築時期は明治後期以降とみられるが、西条酒蔵地区ならびに東広島市内においても考古学的調査がなされた初めての醸造関連遺構となったため報告を行うものである。 |
9、堂々川二番砂留・四番砂留の発掘調査について 福山市経済環境局文化観光振興部文化振興課 山岡 渉 福山市神辺町湯野・西中条を流れる堂々川は、普段は水量が少ない天井川であるが、大雨が降ると土砂の浸食作用が激しく、延宝元(1673)年の氾濫では下流の備後国分寺を埋没させ63名もの犠牲者がでた。その後福山藩挙げての砂防工事が開始され、現在堂々川流域には16ほどの砂留が残っており、うち8つが登録文化財である。 近年、四番砂留において陥没が確認され、その都度現状復旧して経過観察を行っていたが、平成30年7月豪雨により四番砂留が再陥没し、二番砂留も石材の緩み抜けが発生した。そのため今後適切に対処するための方法を検討と復旧箇所の記録保存を行うために発掘調査を実施した。今まで砂留群の考古学的調査はあまり実施されておらず、築造技法や石材調査、き損原因の把握を目的として行った。その結果、石積みは接着材を使用した強固な練り積みであること、石材の矢穴の比較等から江戸時代中・後期のもので、神辺町の古墳群の石材に残された矢穴規模とほぼ同じで、古墳の石材を再利用して築造したという聞き取り等の内容と矛盾しないことがわかった。 |